いかなる客も神とみなす

अतिथि देवो भव:

アティティ デーヴォー バーヴァ

いかなる客も、神とみなす

 

ヨーガを認識し始めた頃から、この言葉はずっと私のどこかにありました。

客とは人に限らず、私たちが遭遇する突然の出来事も、すべてはアティティ("連絡なしに訪れる者" の意)。

 

時として目の前に現れる、強者、曲者、臆病者、変わり者。

自分にはどうする事もできないものごと。

それら全ては、神。見方によっては、その遣いであり、自分なのです。

 

話は遡って、約25年前の私の手記に、

「座右の銘:主客合一」とありました。

今と、その時と、同じ言葉の捉え方をしているかというと疑問がありますが、

どうやら25年前の私も、その言葉のエッセンスを気に入っていた、または、確かにそうだ!と感銘を受けたことに間違いはなさそうです。

人様に語るに語れない時期も過ごしたわたくしですが、

こういう言葉にピンと来ていたことを、誇らしく思います。

 

 

いかなる客も、すべて私。

見えている世界は、自分の内を見ているに過ぎない。

 

生老病死、愛別離苦に始まる四苦八苦のすべても、

エゴを取り去った真心で捉えれば、

あぁ、あれが私を救ってくれたんだ、と解る。

進むべき道は、この道だったのだ、と。

それがストンと腑に落ちるのに、多少の時差を生じる。これがまた、なんともはがゆいこの世の性ではありましょうが、

「すべてがそうだ!」と、1000%理解する時、

それを智、覚り、と言うのでしょう。

 

Hari Om Tat Sat!

 

 

人生で遭遇するすべては、たまたま列車に乗り合わせた隣人に同じ。

 

おにぎりを戴いても、唾を吐かれても、それはただいっときのこと。

その頂き物でお腹を壊すかもしれないし、唾を吐かれたおかげで、落ちてくる荷物に当たって怪我をせずに済んだかもしれない。

人間万事塞翁が馬、なのです。

その真は、快も不快もない。

 

ぐるぐると点滅しながら巡る感情や思考は、エゴが私たちに見せる、ただの反射。Reflection。

スクリーンに映る像を見て、これこそが私、と見紛うことなかれ!

永遠と、永遠でないものを識別できる私であれ!

それを知っていれば、もうなにも怖いものはありません。

Om Shanti.

そこには、静けさだけが残ります。

 

 

 今夜は、雨音に混じって、波の音がよく聞こえます。

地域新聞の記事にこれを書くのはちょっと憚られましたので、

久々のコラムとしてこちらに書かせていただきました。

 おやすみなさい。

今年も良い年にしましょう。

 

 

2024 節分

立春を前に。