予言ならぬ、"預言"CAFE

さるお方から、

さとちゃん、東京に行ったらココ行ってきなよ。

と教えて頂き、もう随分前に体験してきた、ちょっと変わったカフェのお話。

 

そのカフェでは、

「主が言われます。」

という言葉とともに、さまざまな“預言”を頂く訳なのですが。

”予言”ではなく、

預言、の方です。

 

↓from Weblio辞書

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よ げん [0] 【預言】

①  神や死霊の意志を媒介し、人々に伝えること。また、その言葉。とくに、超越神によって示された世界の意味・救済の意味などを人々に述べ伝えることをいう。

②  「予言① 」に同じ。 〔同音語の「予言」は未来の出来事や未知の事柄をあらかじめ言うことであるが、それに対して「預言」は神の意志を人々に伝えることをいう〕

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ふむふむ。

そういう意味だそうです。

では、参りましょう。

 

そのカフェは、すっきり明るい感じで、こじんまり。

怪しい感じはちっともありません。

ちょっとお高め(すべて主観です)の飲み物を頼み、

ただゆっくりすることもできます。

が、

預言カフェと銘打っているだけあって、他のお客さんもみなさん預言をお願いしているようでした。

テーブルの席で、なんだったかな?美味しそうな名前のコーヒーを注文し、

小菓子付きの美味しいコーヒーが届き、

ほどなくして預言してくださる方がテーブルに付きました。

これから話す事を録音するように促されます。

録音したものを、のちに書き起こしてください。

との事。

自分の携帯電話のボイスメモを準備すると、預言が始まりました。

 

自身でも読み返せるよう、

内容をここに書き留めます。

 

 

以下預言。

 

主がいわれます。

愛する娘よ、私はあなたを祝福します。

あなたは、自分自身の夢をしっかりと表して、それを追い求めてきた。

その事を、喜んでいます。

と、主がいわれます。(この言葉は以後繰り返し出てきましたが、割愛します)

だからその事に対して遠慮したり、あきらめてはいけない。

今までしてきた、そのひとつひとつは、あなたにとって良い準備となった。そう信じてくださいね。

 

あなたの心は、とても優しく、本当に思いやり、そして深い。

自分の夢を達成することだけでなく、みんなが喜ぶこと、みんなが成長することを重んじてきた。

それがあなたです。

その姿勢を、ますます良いものとして受け取ってくださいね。

 

どこに行っても評判の良い。それがあなたです。

それは、偶然にそうなったのではなく、あなたの努力が、あなたのその責任感が、それを生み出した。

だから遠慮しないで、そのことを受け取ってください。

 

ますます、人間関係の中から新しいものが生み出されていく、それを見るでしょう。

期待されて、召されていく。

期待されて、招待されていく。

その中には、自分がそんなところに進んでいっていいのだろうか、

と思えるような、大きい場面にも出会っていきます。

それに対しても、遠慮したり、臆病になってはいけません。

自分らしくあること、それがとても大切。

だから気負ったり、良く見せようと思うのではなくって、

ありのままの自分で挑戦していく。

それがあなたです。

同時に、どこに行くにしても、自分がふさわしいもの、その確信を捨ててはいけません。

神は、あなたのことを、

『ふさわしいもの』

そう、呼んでいます。

だから自信を持って、ふさわしいものとして遣わされていってください。

それは、大使や、使節のようなはたらき、そういうものとなっていくでしょう。

良いものを運んでいく、その人として、あなたを持ち上げていきます。

それを喜びながら伝えて行く。その人であって下さいね。

 

言葉の力。

それをますます見るでしょう。

雄弁に語るというよりも、情熱と、心を表す。それが大切です。

文章を綴る事に時間を使うのではなく、

準備なんかなくてもいいから、あなたの思いにあるものを、その自然体で言葉にしていく。

それが伝わっていくものとなるでしょう。

だから血の通っている、そのものを、大切にして下さい。

それはあたたかくて、

ほんとうに誰もが共有できる。そのようなものですよ。

 

これからますますバーチャル、インターネットなどが盛んになっていく。

血の通っているものがどんどん遠くなってしまう。

でもあなたはそれを選ばずに、自分自身が足でかせいで、そして自分自身を通して伝えていく。

労苦もあるでしょう、時間もかかるでしょう。でもその価値を見失ってはいけない。

そしてそこにはほんとうに愛がある。ぬくもりがある。そのことを喜んでください。

それは、やって良かった。ほんとうに果たして良かった、と思える、

その様なものとなりますよ。

 

以上。

 

 

これで3分半。

少しの迷いもなく、次々と言葉が続きます。

預言。おもしろいですね。

耳を立てると、周りの方のお話も少し聞こえて来るのですが、

もちろん全く違う。

みなさん、きっと、それぞれの言葉を聞いて、

それぞれのフィルター、観念を通して理解していくのでしょう。

 

いやはや、言葉というのは興味深い。

 

私は、人生に時々おとずれる言葉のない世界、言葉が必要なくなる瞬間が本当に幸せで、

だから自分の拙い言葉を重ねても何にもならず、

むしろ、私と私がすれ違って、言葉で他人=自分を振り回してしまったり

もどかしく、切なく、時には無念さえ感じて、

あぁ、もう、早く言葉のいらない世界に帰りたい。と、

言葉なく全てが伝わるところの記憶がずっと拭いきれずにいたのだけれど。

 

今からちょうど一年前。

インド、ガンゴトリからウッタルカシに戻り2週間が経つ頃、

どうしても、もう一度アドヴァイタナンダジに、ひと目お礼をお伝えしたく、

ダラムシャーラー行きをキャンセルしてガンガーを下り、

リシケシのアシュラムに戻った時のこと。

 

ある夜、師のサットサンが終わり、周りの方に続いて私も立ち上がり、師の前に差しかかった。

お礼を、お伝えできるかかしら?と姿勢をそちらに向けると、

師が、まるで真夏の太陽の如く満面の笑顔でこちらを見、大きく開いた両の手のひらをこちらに向け、、

 

そして元気玉を出したーーーっっ!!!!(かもしれない)

 

その時私は、言葉ではない何かで全てが伝わる世界、を、全身全霊で体験してしまった。

この世にうまれてそれは二度目の体験だったのだけれど、

(いや、本当は毎日そんなことばかりなのだけど)

この時はじめて、

あぁ、やっぱりこの世界にもあるんだ!!

と、その存在を強く全身に感じ、とても高揚したのを覚えています。

(たぶんあの時の私は、全身が銀色に光ったと思います。笑)

 

 

言葉のない世界は素晴らしい。

なんの摩擦もなく、全てが伝わる。

ただただ嬉しくて、自分の中から光が溢れる。

ほんとうはずっとそこにいたい。

 

でも今、私はここに生きていて、言葉を使うことができる。

それならその時間を最大限生きなくちゃ。

自分の思いをそのまま目の前に表すのはとても難しいけれど、

今は、それによって知る時なんだ。と、そう思いました。

 

きっとこれから私は、自分の言葉を学んでいくのでしょう。

 

そう思ったすぐ後、この預言を書き起こしたついでにボイスメモを整理しようと携帯画面をスクロール。

(今だから、こういう作業が心置きなくできます。とても楽しい学びの復習、掘り起こし作業。)

パッと目に入ったのが、一年前のアシュラムでのアドヴァイタナンダジの講話の録音でした。

うわぁ!と思ってスピーカーにつなぎ、師の言葉に聞き入ります。

体は自然とシバナンダジのお写真の前に座ります。

そうしたらなんと、驚く事に、まさにそういう事をおっしゃっていた。

Human Birth というギフト。

人として生まれたからこそできること。

"私とは何か" ということを言葉で考え、話すことは、たとえ神様にも、ましてや動物にもできないことだ。と。

 

あぁそうか。

ことばの要らない世界がここにも在ると確信して、

やっとこれから私は私の言葉を経験するのか。

こうやって、どこかで分かっていたこと、感じていた事が、腑に落ちる時、あぁ!と深いところに触れる時、

涙がツーと流れます。

 

 

自然体の言葉で、

心を表す。

良いものを運んでいく、

それを喜びながら伝えて行く。

 

なんだかいい預言を、いただきました。

喜んで、自分自身を通した言葉で、伝えていきたいと思います。

 

あぁ、いつにも増して、とても長文!

ありがとうございました。

 

Hari Om